[魍魎の匣]
原田眞人監督 2007年
公開時に見ました。
ええもちろん。みましたとも。
「姑獲鳥の夏」ではげしく打ちのめされていたので、1bitも期待をして
はいけないと、スペシャルなフィルタがかかっていたみたい。
見た直後の感想は
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だめっぷりを確認してきました。
結論としては、まぁ、こんな世界もアリだと思う。
前作よりは、なんぼかマシ。
絶対に許せないところは、
鳥口くんが「うへぇ」と言わないのと、
どーみても中国なところ。
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でした。(2008年1月に、某所に書いたもの)
そんなわけで、まる4年たってまた見たわけですが。
あああああああああ、泣けてくる。あまりにもひどくて泣ける。
百鬼夜行シリーズの世界観はゼロです。
やっぱり中国は無しだよなぁ。
こんなスペクタクル(笑)にしなくてもいいのに。
これは木場修の物語と久保竣公の物語。その軸もうまく表現できず。
そして何よりも、なぜ "匣" なのかわからないのがいけない。
冒頭に、なぜか久保竣公が榎木津礼次郎と出会った戦場のシーンで少し
だけ説明があるけれど、それだけではわからなさすぎる。
鬱病気質な関口巽は、姑獲鳥の永瀬正敏さんの方がよかった。
右往左往する京極堂もあり得ない。
京極堂は解説はするけれど、無駄口はたたかない。
人を踏み台にするくらいなら、その人を使う。
がんばれなんて言うわけがない。
よろけて柱に頭をぶつける京極堂なんてあり得ないでしょう。
あんなシーンをいれることで、誰が喜ぶとおもったんだろ?
こういう変にキャラクタの設定をいじるのは、絶対にやっちゃいけな
いことだと思うんだよね。
原作のあるものを映画化するにあたり、原作の何を軸にするかという
のは大切なことだと思うのだけど、なんでこうやってダメ方向に行って
しまうのかなぁ。
世界観やキーワードだけをモチーフにするのはありだと思うのですよ。
電気羊もそうだしね。黒澤作品はロシア文学やシェイクスピアを原作に
したものがあるけれど、作品としては素晴らしいと思うのですよ。
でも、パーツを並べて適当においしそうなところを拾い上げて再構築
する☆だけ☆ってのは、どーにも好かないのです。
それなら原作ほげほげなんていわないで、と思うのです。
例えばゴルゴ13。コミックを読んだことがない人も、キャラクタとして
のゴルゴを思い浮かべるとよくわかると思う。
眉毛とか、後ろに立つと誰だろうとぶっ飛ばすところとか、無口なとこ
ろとか、絶対にいじってはだめな部分があるわけです。
ゴルゴがてへっと笑ったり、思考がまとまらずあたふたしたり、さらに
依頼主に対して、満面の営業スマイルで握手しながら「この度はご依頼
くださり、ありがとうございました」なんて挨拶をする姿があったとし
たら?
パロディならともかく、これじゃだめだと思いませんか?
多くの監督は平気でこういうことをやってのけてるのですよ。
恥ずかしげもなく。
自分の作品を作るならきちんと作る。
原作を映像化するなら、原作の肝を壊さない。
どっちかにしてほしいのです。
次に京極堂シリーズを映像化する強者?酔狂なひと?チャレンジャー?は、
でてくるかなぁ。
ちなみに、嗤う伊右衛門はいいです。かなり良い。小雪ちゃんがきれい
で 怖い。美しい。
巷説百物語シリーズもみたけれど、良いと思うですよ。これは、まぁ、
イメージとしては必殺シリーズに近い物があるしね。
結局のところ、主役たち。
人選は限界があるので百万歩譲るとしても、キャラクタ設定がすべてを
ぶち壊している気がするわ。やっぱり。
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